京都御所
前回は宇治の藤原道長の墓の話をしましたが、紫式部の墓は京都市内にあります。私の家から歩いて10分ほどのところで、「紫野」という、紫式部にふさわしい地名のところです。しかし、そこはお寺でも何でもない、島津製作所の工場に囲まれた小さな場所です。最近は誰かがいつも花を供えてくれるらしくて、堀川通りを歩いていればすぐに気づきます。
紫式部が生まれたのは、京都御所の東にある、廬山寺のあたりと言われています。父・藤原為時の邸宅があったところだそうです。盧山寺のホームページでは「この邸宅で結婚生活を送り、一人娘の賢子(かたこ)を育て、源氏物語を執筆したのです。」と書かれていますが、当時は廬山寺は別のところにあり、寺はずいぶん後にその地に移ってきたということになります。
藤原道長の屋敷は「土御門第」と呼ばれていますが、これは現在の京都御苑内の大宮御所の北側のあたりにあったと言われています。京都御苑の地図で見ますと京都御所の東側で、道一つ隔てたところです。つまり、京都御所と土御門第は道を挟んだ向かい側同士です。土御門第と紫式部の実家(藤原為時邸)も同じく寺町通り(前記地図の右端の道)を挟んだ向かい側同士にあたります。これらの道は私が通勤時に自転車で通るところです。
ということで、身近な場所がよく出てきますので、NHKの大河ドラマ「光る君へ」を毎週見ているのですが、奇妙な場面が気になりました。道長の女(むすめ)彰子が一条天皇の子を身ごもったとき、土御門第に里帰りしたのですが、彰子に仕えていた紫式部も土御門第に移りました。テレビではそのときに紫式部が彰子に、一時実家に里帰りしたいと願い出ました。でも、目と鼻の先の家に「里帰り」とは?御所から実家に里帰りしたいと願い出ていたときも同じです。宮仕えはそういうものかと何となく納得しましたが...
しかし、つい先日、大きな間違いに気がつきました。当時、御所は今のところではなく、平安京が造営されたときの最初の場所にあったのです。現在の地名でいうと千本丸太町あたりで、今の御所から西へ約2kmほど離れたところです。これなら「里帰り」という言葉も頷ける距離です。今の御所は、火事等の際の仮御所である「里内裏」が正式な御所になったもので、元々は土御門東洞院殿というところだったそうです。
京都では1200年の間に様々なできごとが起こりました。街中を歩いていますと、教科書で習った様々な歴史的遺物を目にすることができます。しかし、物事の順序を正しく把握しないと、頭の中でとんでもない歴史を作り上げてしまうことになります。この教訓を仕事にも活かしたいと思います。