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2014/01/06弁理士ブログ

明けましておめでとうございます。

昨年は何かと難しい判断を迫られることが多く、そのうちの幾つかでは反省すべき点がありました。ただ、これらによって多くの知識を得ることができ、次に生かすことができるという獲得の年でもありました。思い出に残る年の一つでしたが、今年は自ら思い出を作り出していきたいと思います。

昨年暮れにポルトガルに行ってきました。帰国後、タクシーの運転手に「どこに行ってこられたのですか?」と聞かれたので「ポルトガルです。」と答えると、「名前は聞いたことがありますが、どこですか?」と言われました。

スペインの横です。正確に言うとスペインの西で、ヨーロッパ大陸の最も西にあります。ですから、日本からは最も遠いのですが、最初に日本に来たヨーロッパ人がポルトガル人です。1543年、ポルトガル人商人が種子島に鉄砲を伝えました。また、天正少年遣欧使節団(1582年~1590年)が最初に上陸したのがリスボンであるように、ポルトガルは日本にとって当時のヨーロッパの入口でした。カルタ、テンプラなどがポルトガル語から来ていることはよく知られています。先斗町もそうですね。

ポルトガルへ行こうと思ったのは、大航海時代と呼ばれる時代の雰囲気を嗅ぎたいと思ったからです。リスボンの海岸から、発見のモニュメントという船先形のモニュメントが突き出ており、その先頭でエンリケ航海王子が大西洋を指さしている風景が有名です。現地で聞くと、エンリケ航海王子自身は航海をしなかったようですが、航海学校を作るなどして、ポルトガルの世界拡大を強く推進したようです。

ポルトガルの蹉跌は、コロンブスの申し出を断ったことから始まりました。コロンブスはスペインへ行き、スペイン王室の援助の下で航海に乗り出し、1492年にアメリカ大陸を"発見"しました。その後、ポルトガルとスペインは植民地開拓に鎬を削り、あちこちで衝突しましたが、1494年、トルデシリャス条約という条約を結び、西経46度の線を境にして、それよりも東側をポルトガルに、西側をスペインにと分割しました。地図を見ると分かりますが、これによりブラジルだけがポルトガルに属し、それ以外の南北アメリカはスペインに属することになりました。当時の世界観ではアジアは東の方でしたから、アジアは全てポルトガルに属することになりました。

ちなみに、1522年にマゼランが世界一周を成し遂げ、地球が丸いということがわかると、1本の線では世界を分けることができないことがわかりました。そこで1529年に再びポルトガルとスペインの間でサラゴサ条約という条約が結ばれ、東経144度線を境に、それよりも東(そしてトルデシリャス条約の西経46度線よりも西)をスペインに、西(そして西経46度線よりも東)をポルトガルに、と取り決めました。また地図を見ていただきたいのですが、東経144度線は日本の網走あたりを通っており、日本のほとんどはポルトガル側に入っています。

ポルトガルは既得権として日本を確保したのでしょうが、日本ではそのような条約のことなど全く知らず、戦国時代のさなかでした。日本だけではありません。中国をはじめとするアジアの国々ではそのような条約とは無関係に政治が行われ、生活が成り立っていました。今から見ると滑稽な世界分割条約ですが、同じようなことが今でも行われているような気がします。

発見のモニュメント

小林 良平

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